マイクロブログ・アーカイブズ 2022年5月
仕事上の問題を「より沢山働く」ことや「より複雑にする」ことで解決しようと思った時は、その考え方、取り組み方自体に問題がある。長時間労働というのは「仕事のエンジニアリング(工夫する、知恵を絞ること)」をサボった証拠。そんな風に考えられるようになったのは散々ガムシャラに、かつ無駄に働いてみてからだったりする。
仕事上の問題を「より沢山働く」ことや「より複雑にする」ことで解決しようと思った時は、その考え方、取り組み方自体に問題がある。長時間労働というのは「仕事のエンジニアリング(工夫する、知恵を絞ること)」をサボった証拠。そんな風に考えられるようになったのは散々ガムシャラに、かつ無駄に働いてみてからだったりする。
アメリカの実業家や経営者には、業種に関係なくコンピューターサイエンス(CS)の学位を取得した人が多い。法律家や美術の教師、ひいては不動産屋がプログラミングが出来ても何ら違和感ない。「人生100年時代」と言うのなら、「文系」「理系」とか、二十歳そこらで何を専攻してたか程度で人をレッテル付け(差別)したり、世界を二つに分断するのはもう終わりにしてもよいのでは。
アーティストというのは創造とペテンの間を行き来する生き物。見る者聴く者の「認識を操る、曲げる」という点では同じなのだが、後者の側面が強すぎると、作品を鑑賞・体感してもいない人の心まで操ってやろうという野心が前面に出てくる。時に、その浅ましい生き様の方が作品よりも作品らしくなることも。
「分離」「通過儀礼」「帰還」というジョセフ・キャンベルの英雄神話のパターンは一つ覚えのようによく語られる。僕には生家や故郷がないせいか、「元いた場所に”戻る”」という桃太郎的な帰結よりも、「ショーシャンクの空に」のような「新天地にたどり着いてゴール!」という解放的な締めくくりの方が好み。
日本の「右に倣え」な同調圧力はよく知られているが、アメリカにも「前向きで楽観的、おおらかでいなければならない」という、日本とは真逆ともいえる社会的プレッシャーがある。いずれにせよ早い段階で「この人は(圧力の誘惑に)簡単に乗ってこないな」と諦められるのも一つの手。
「アンチフラジャイル(反脆弱性)」という言葉が以前流行した。政府(親)がアクシデントに対して過剰反応をしたり過保護になると、国民(子)が「打たれ弱い」体質になり、結果として将来や別の環境での不確実性やショック、ストレスに対応できる能力が育たなくなる。
今後CDの形態で一般販売をすることは最早ないかも知れないが、1,000円を若干超える程度の定価を想定して出荷しても、日本で売られる頃には3,000円を超えるという現象に閉口する。この謎を解こうと流通業者と色々掛け合ったが、結局アメリカでCDを製造して日本に流通させようと思わない方が賢明なのではないかと思っている。
3年前のデータだが、アメリカのヒットチャートのトップ10に入った楽曲にクレジットされているソングライターの数は、1曲につき平均9.1人らしい。1曲作るのになぜそこまでの頭数が必要なのか一見不可思議だが、この「一人の才能の手柄にしないで関係者みんなで山分け」方式はハリウッドを含め最近のアメリカ社会ではよくある現象。
「クリエイティブとは何か」については誰もが饒舌に語るのだけど、創作をビジネスという観点から見ると「オーナーシップ」という概念が実はとても重要。「誰のお金でそれを作り、市場に流したのか?」を軽視して創作に関わることは、クリエイティブでない作品を作るよりもずっと、キャリアにとって危険だと思う。
Tatsuya Oe Updated: 2024/11/5 火曜日
効果音(サウンドエフェクト)は巷に出回っているので、わざわざ自分で作らなくても間に合うといえば間に合う。しかし、クセのある音や特徴的な音を作りたい場合は、シンセで波形を一から合成したり、自分で録音したオリジナル音源を加工して作るしかない。これは作曲とは異なる、いわば別の創作魂や忍耐力が試される世界。効果音といえば、ここ十年で最も定番化したのは「BRAAM(ブラーム)」だろう。次の時代を形作るのは、はたしてどんな音なのだろうか。
2年ぶりに、各種がん検査を含めた健康診断を受けた。詳しい結果はこれからだが、現時点では異常なし。毎日2時間体を動かし、毎朝山盛りの野菜を食べ、超規則正しい生活を送っているので、これ以上健康的にしろと助言されても思いつかない(笑)。今も健在な父は「俺は生命線が2本あるから、まだ大丈夫だ」と冗談めかして言う。長寿も素晴らしいが、最後に心の底から笑える人生は、さらに素晴らしい。
創作手法にあえて制約や縛りを設けることで、よりクリエイティブなものが生まれることもある。これは作り手なら誰もが経験しているだろう。ただ、そうして生まれた作品を受け手がどう感じるか以前に、このアプローチ自体が目的化・教義化してしまったり、作り手としてむしろ満足できないクオリティに陥ってしまうなら意味がない。そんなことを、かつて話題になった映画製作運動『ドグマ95』を思い出しながら考えた。昨日の「度胸比べ」も厄介だが、「ガマン比べ」も大変だ。