マイクロブログ・アーカイブズ 2023年7月
ラテン音楽やディスコ、ファンクを聴いて気分が塞ぐという人に会った事がない。好きな音楽ジャンルは沢山あるが、僕がこれらの音楽が特に好きなのは、ウンチクや評論、体裁が入り込む余地がなく、体と心が「楽しい!」と素直に反応するから。逆に「これは(格好)良い音楽です」と頭に言い聞かせてから楽しむのが好きな人もいるだろうけど、そういう情報で判断が揺らぐタイプはこの手の音楽にはあまり接近しない。
ラテン音楽やディスコ、ファンクを聴いて気分が塞ぐという人に会った事がない。好きな音楽ジャンルは沢山あるが、僕がこれらの音楽が特に好きなのは、ウンチクや評論、体裁が入り込む余地がなく、体と心が「楽しい!」と素直に反応するから。逆に「これは(格好)良い音楽です」と頭に言い聞かせてから楽しむのが好きな人もいるだろうけど、そういう情報で判断が揺らぐタイプはこの手の音楽にはあまり接近しない。
ライオンの寿命は囚われの身で25年、野生だと12年~16年らしい。檻の中では食物も医療、仕事ですらも保障されるし、第一、外敵に殺される危険がないので、当然長寿になる。動物愛護や種の存続の点では様々な意見があるだろうし、ライオンに生きがいや充実感、退屈という概念があるのかは分からない。ただ少なくとも人間は、健康や安全の確保以上に「生きる価値」を追い求めずにはいられない生き物。
1998年冬、パリのラ・ヴィレットでGlobal Teknoというフェスティバルがあった。デビューして間もない頃の初海外ライブで、東京から機材と変圧器を抱えて、今は無きヴァージンエアに駆け込んだのを覚えている。エイフェックスやらダフトパンクやらの出演者に交じって、エレクトロニックミュージックの新しいうねりの渦中に自分も居合わせることが出来たことを感慨深く思うと同時に、これからも絶えず変化し、音を創り続けることを誓う、25年後の初夏。
キプリングの有名な詩「If」に「If you can meet with Triumph and Disaster, and treat those two impostors just the same」という一節がある。大勝利と大惨事というのは、究極的にはコインの表と裏の様なもの。 若い頃はピンと来なかっただろうが、歳と経験を重ねるとこれはよく分かる。人生何が起こってもそんなに落ち込む必要もないし、そんなに舞い上がる必要もない。これはまさに「塞翁が馬」の意味するところ。
個人的な見解だが、アートに「職人」という言葉を使うことに違和感がある。アートとクラフト(工芸)は重なるところはあれど、(優劣の問題ではなく)基本的に別物。アートは創り手のアイデアや視点、エモーションを作品に投影させる「自発的な挑戦」であって、リスクや恐怖と常に表裏一体。そこに秘めた危うさや飛躍、不安定さが、クライアントや指示の存在を暗に意味する「職人」という概念とフィットしないように感じる。
曾祖父母が第二次大戦時カリフォルニアの強制収容所に入れられていたことを聞いたのは、母が他界するほんの少し前。僕が渡米した後もなお先祖にアメリカ移民がいたことを全く知らなかったわけだが、母から聞いた僅かなエピソードの中で印象的だったのは、収容所での過酷な生活や人種差別を経てもなお、曾祖父はアメリカへの愛国心に溢れていたということ。僕にとって「二つの祖国」はもはや作り話ではない。
「時間をかけてぐつぐつ煮たシチューよりも、温かいインスタントスープの方が時に価値がある」といった内容の事を昔誰かが言っていた。クリエイターの多くは完璧主義に陥りがちで、時間管理が苦手。職業に関係なく日本人にはこの傾向が強いというが、この完璧主義は実は自分も周囲もあまり幸せにしない。自分の集中力や意志を過信せず、意識的にせっかちになって小さい結果を積み上げていく方がハッピーだと思う。
「言論には言論で」とはよく言われるが、世界中を見渡し、歴史を振り返ると、言葉が解決してきたことは意外にも少ない。解決策を暴力に求めるのは頂けないが(でも往々にしてそうなる)、「自分は賢い」という自負の強い論破型の人は、「人は気持ちで動く」ということに意外なほどに鈍感。言論や「正しさ」では、喜怒哀楽には勝てないんです。
70年の大阪万博は、岡本太郎の表現する縄文人的な情念や野蛮さと、丹下、磯崎らの弥生人的なモダニズムとのぶつかり合いが成功に導いたという見方がある。確かにこの「縄文と弥生の衝突」というのは日本文化を育んできた原動力になっているように思うが、一人の人間の中でもこの二つの要素をどう飼いならすかは重要だろう。自分は縄文6で弥生4くらいか。
先日、日米の充実感やストレスの質の違いについて書いたけれど、インドについては?中国は?ブラジルは?と聞かれると、まったく答えられない。世界の3分の2以上の人たちが何を話しているのかも聞き取れない。音楽はまだしも、彼らの間でどんなスポーツが熱いのかも把握していない。というわけで、インドでは国民的スポーツであるカバディの試合を立て続けに見て、この地球には自分が経験したことのない熱狂が、まだ山ほどあることを思い知らされている。
PKL(プロ・カバディ・リーグ)予選 – Puneri Paltan vs Dabang Delhi
https://youtu.be/QzYxNO3BAP0
「たかが…されど…」という言い方には違和感がある。「たかが」で物事を深刻にとらえすぎず、執着しないよう自分に言い聞かせておきながら、「されど」で未練や割り切れなさを表す。この曖昧さや心の揺らぎ、余韻は、ある意味とても詩的で情緒的なのかもしれないけれど、結局誰も幸せにしない気がする(笑)。暴論かもしれないけれど、全部「たかが」で生きた方がストレスが少なく、本当に大切な時間と人を大切にして、充実した人生を送れるのではと思うのです。
ビル・ヒックス『(人生は)ただの乗り物』
https://youtu.be/KgzQuE1pR1w
すべての場所がそうとは限らないが、アメリカでは普通に暮らしていても警戒心が強くなる。とはいえ不安だらけでお先真っ暗というわけではなく、仕事でも遊びでも「動けば動いただけ報われる」充実感を得られることが多い。日本は治安や医療で質の高い平和を実現しているが、「運命は自分の手で変えられる」と思える風土があるとは言いがたい。ストレスの質が異なる複数の世界を知ることは、結果的にストレスの量を相殺し、自分の可能性を広げることにつながる。
エリック・ホッファー『大衆運動 新訳版』
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