「創り散らかす」力
北斎、ピカソ、アイザック・アシモフ、そして立花隆。彼らは信じられないほど多作であり、作風のレンジが驚くほどに広範です。彼らは生涯に渡り作品を自発的に「書き散らし」、自らをも変身させてきました。クリエイターとしての雑食性が強靭な筆「圧」を生み、時代を超えて見る者読む者を圧倒する。僕が触発されるのは彼らの「創り散らかすパワー」なのです。
北斎、ピカソ、アイザック・アシモフ、そして立花隆。彼らは信じられないほど多作であり、作風のレンジが驚くほどに広範です。彼らは生涯に渡り作品を自発的に「書き散らし」、自らをも変身させてきました。クリエイターとしての雑食性が強靭な筆「圧」を生み、時代を超えて見る者読む者を圧倒する。僕が触発されるのは彼らの「創り散らかすパワー」なのです。
90年代後半に一世を風靡したビッグ・ビートのムーブメントについての書籍「The Little Big Beat Book」がイギリスから発売されます。ファットボーイ・スリム、プロディジーなどの代表的なアーティストに加わり、僕もこの本のインタビューに参加しました。日本ならでは特色に注目しつつ、当時のシーンを振り返ります
人間を「理性的な動物」と呼ぶことがありますが、生きていくために理性よりもずっと優先して理解されるべき、人間が本来持つ「動物性」について、渡米2年を経た今考えてみます。栗本慎一郎からドナルド・トランプまで、人間の動物性を垣間見る参考図書も紹介。
Dark Modelのファースト・アルバムが米国の第14回インディペンデント・ミュージック・アワードノミネートされました。過去にフライング・ロータスやジェイミー・リデル、ラ・ラ・ライオットなどが受賞、ノミネートされているこの国際的音楽賞について紹介します
音楽ビジネスを取り巻く「エコシステム(生態系、循環系)」は今やミュージシャンごとに異なり、一つの正解というものはありません。大事なのは自分の音楽がどう聴かれ、どう拡がり、どう使われることによってその結果何が生まれるのかという、自分のエコシステムをしっかりと解剖して向き合うことです。
「金は天下の回り物」ということわざがありますが、汗(努力)も「回り物」です。無駄な汗をかきすぎない、もしくはかいた汗を無駄にしないための、仕事の「仕掛品」作りの仕方とコツについて紹介します。
ロサンゼルスで開かれた、音楽ビジネスでの「シンク・ライセンス」に焦点を絞ったカンファレンスにパネリストとして参加してきました。その他、英国ノーザン・バレエ・シアターとのコラボレーションなど、最近の楽曲ライセンス情報をお伝えします
世の中「○○するには××しないといけない」という、「そんなの誰が決めたんだ?」と言いたくなる「妙な常識」「金科玉条」「心理的障壁」がまだまだ多すぎます。それで委縮してしまうには人生は長すぎる。大事なのは自分の信念を行動にする「意志の強さ」です。風説を信じて飛び込まずにいる自分の中の「臆病者の杞憂」を追い払いましょう。
自分の会社・レーベルであるModel Electronicのサイトを更新しています。会社や事業体はブランディングやイメージ作りよりも、「誰に対して何を語っているのか」をしっかりと意識して「相手の立場に立って考え、書く」ことが最優先されるべきなのですが、言うは易し、これが意外と難しいのですね…。
Tatsuya Oe Updated: 2024/11/5 火曜日
以前のウェブでは、自分のサイトに有益な情報を載せれば、検索結果で上位に表示されるのが普通だった。ところが最近は、GoogleなどがAI検索を導入し、苦労して書いた情報が要約に使われて終わるだけ、という問題が起きている。「役に立つ情報ほど吸い取られる」悲劇が始まったというのだ。僕自身はむしろGoogle検索をあまり使わなくなり、使う時もAIによる要約機能はオフにしている。
「歴史に”たられば”はない」というのはその通りだ。でも、未来について空想したり、“たられば”を考えるのは悪いことじゃないと思う。過去の事ですら、事実は変えられなくても、その解釈は幾らでも変えられる。歴史は、エゴの強い「現実を都合よく捻じ曲げる人たち」によって作られてきた面があって、彼等の頭の中は自分勝手な“たられば(ファンタジー)”で一杯だ。僕ら普通の人だけが現実を直視してしかめっ面ばかりしているのは割に合わない。もっと空想しよう。
Gary Bartzの曲で”Music is my sanctuary(音楽は私の聖域)”という素晴らしいタイトルの曲がある。我々はインターネットが普及したことで様々な音楽にアクセスしやすくなった一方で、音楽という「耳で感じる文化」へのありがたみを徐々に置き去りにしている気がする。人間は一日30ギガバイトの情報を浴びるとも聞くが、情報量(バイト)に換算すべきかどうかはさておき、人間が聴覚情報を通して受ける情動は視覚情報のそれに比べると今や微々たるものだろう。